« しつけは徐々に | トップページ | かん太と私 »

2011年7月 4日 (月)

この日常を守る~原発考再び

今朝(2011.7.04)の朝日新聞に、「世界の中心で、愛を叫さけぶ」の作家、

片山恭一さんのコラムがあった。

  ***  ***  *** 

佐賀県知事が、停止中の玄海原発2、3号機の運転再開を容認する姿勢を示した。しかし、原発をどうするかということは、地元自治体の長らの意向をはるかに超えた問題であると思う。

ぼくはたまたま「地元」の福岡に住んでいるが、そのこともとりあえず関係ない。これだけ大きな事故を引き起こしたにもかかわらず、なしくずし的に各地で原発が再稼働を始め、日本が以前と変わらない状態に戻ってしまうことを心から憂える。

ひとたび生み出されてしまった放射能は、人間の手では消すことができない。放出された放射能は地球全体に広がり、いや応なしにすべての人類が共有するものになる。チェルノブイリの放射能も日本各地で検出されている。

今回、同じことを日本はしてしまった。地震の被害に対して海外の人々は心のこもった援助の手を差しのべてくれたが、原発事故は世界中が厳しい目でその動向を見つめている。事故は収束の見通しさえ立っていない。そんな状態で停止中の原発を稼働させれば、日本は国際社会での信用を決定的に失うだろう。

[以下略]

  ***  ***  *** 

昨日(7.03)のTBS「サンデーモーニング」で、成蹊大学の西崎先生は、

「不特定多数の人の命をおびやかす原発のリスクを、電力不足や景気低迷と同じレベルで考えるべきではない」という趣旨のコメントをしていた(記憶なので曖昧です。あしからず)


井上ひさし著「ボローニャ紀行」からの一節。

  ***  ***  *** 

このところわたしは「平和」という言葉を「日常」と言い換えるようにしています。平和はあんまり使われすぎて、意味が消えかかっている。そこで意味をはっきりさせるために日常を使っています。「平和を守れ」というかわりに、「この日常を守れ」という。

  ***  ***  *** 

経済界も、一般の家庭も、守りたいのは「この日常」。

「この日常」が原発事故による放射能で破壊された、福島の人たち。

「この日常」が原発事故による電力供給低下で脅かされている、経済界。

「この日常」を取り戻す手段は、単に「原発再稼働」というだけではすまされない。

「放射能のリスクのない電力の安定供給」を、どこの国の誰が実現するのか。

世界を舞台にしたビジネスチャンスをいかし、地球規模での脱原発、新エネルギーの流れにもっていけるのは、

ドイツなのか、アメリカなのか。

日本も、後れを取っている場合ではない。

とはいえ、電力を使って生産活動をしている企業にとって、現在の節電は死活問題。

勢い「やっぱり原発稼働してくれ」に傾斜する。

でも、この間にも、

着々と新エネルギーにかかわる技術開発をしている人たちがいる。

電力供給や電線所有の在り方を見直す議論もある。

太陽光でも良い、地熱でも良い、小水力発電でも良い。

今ある多くの課題を乗り越えて、

寒い冬が来る前に、二度目の夏が来る前に、新エネルギーがみんなの手に届くものとなって、

それぞれの「この日常」が守られ、回復されますように。

同時に、福島の原発事故が、一日も早く収束に向かいますように。

« しつけは徐々に | トップページ | かん太と私 »

地震・原発事故」カテゴリの記事

コメント

昔よく使った言葉が ベクトル合わせ。 全社の方向性を統一させること。
基本はやっぱり国全体のエネルギー政策ですかね。
方向性さえしっかり出せば、日本人は優秀ですから、実現しますね。

たとえば、役人はあまり好きではないですが、エネルギー庁のスタッフに任せればすぐいろんな条件の予測値を計算しますね。それを政治家抜きで、直接エネルギー庁の数字を我々に公表すればいい。まずそこから出発ですかね。
口先だけの政治家は抜きで、我々がまず事実をしっかり把握して、クールにやった方がいいですね。

kenn-sannnote

>方向性さえしっかり出せば、日本人は優秀ですから、実現しますね。

そうだと思います!
ただ、政治は目先のことでもめていて、なかなか先が見えません。
新しい未来のためにがんばる企業や人がもっと容易につながることができれば、
草の根から未来をつくる動きができてくるような気がします。
そこに行政の応援が入れば、動きは大きく拡大していくでしょう。
ソーラーについてはソフトバンクの孫さんの活動が突出して
クローズアップされていますが、ほかにもどんな動きがあるのか、
もっともっと知りたいですねhappy01heart04


「不特定多数の人の命をおびやかす原発のリスクを、電力不足や景気低迷と同じレベルで考えるべきではない」

全く同感の思いでいます。人類は今こそその生き方を問われているのです。そのことを考えることが、亡くなった方達に対する唯一の供養だと信じています。加えて、20年前の生活水準を受け入れる覚悟があるのか、自分自身に問うています。

Yukki-さんshine
>人類は今こそその生き方を問われているのです。

私もそのような考えに至りました。
NHKを含めマスコミでは、原発の電力コストはいくら、
太陽光ならいくらという試算を出して、
「自然エネルギーにすると電気料金が上がりますが、
家計は大丈夫ですか?」という進め方をするのが
目につくのですが、

ほとんどの国が手をつけられずにいる
最終処分という難題を考えるにつけ、家計の問題に
置き換えるのは罪ではないかと思ってしまいます。

例えば、今年止まった浜岡原発から出る使用済み
核燃料は、これから60年で中間的な冷却期間を終えて、
最終処分の必要が出てきます。

60年後というと、今年生まれた赤ちゃんが還暦を迎える
年です。

実際、私の友人に今年孫が生まれて、週に1度は顔を
みるのですが、
この子が60歳になって第二の人生を考える頃、
2011年の放射性廃棄物の最終処分の問題が再浮上する
のか、と思うといたたまれないです。

ドイツでは、脱原発にあたっての倫理委員会での検討に、
原子力の研究者は招かれなかったそうです。
http://www.asahi.com/eco/forum2011/forumcolumn/TKY201107040118.html

まず、脱原発を原発の安全性の議論にしてはならない。
同時に、当面の経済的な問題を覚悟してでも、脱原発は
やらなければならない。
そういう覚悟を、ドイツ人はしたということでしょう。
だから、今ドイツの電気料金が高くても、あるいは原発
停止による電力不足分を原発依存率の高いフランスから
買うことになる矛盾が生じても、ドイツ人は「仕方ない」
と割り切れるのですよね。

同時に、新しい自然再生エネルギー時代の先駆者に
なるぞという強い決意もうかがわれます。

日本も、いま原発にしがみついていていいのか、
私も激しく悩んでいます。

think出遅れましたが、「100000年後の安全」観ました。 ぞっとしてます。

アーロン姉さん
事実は小説より奇なりというけれど、
今まで誰も知らなかったし関心も持たなかった
事実がまさかこんなだったとは・・・と茫然です。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« しつけは徐々に | トップページ | かん太と私 »